シミ

シミ

都心の喧騒を離れ、主人公が手に入れた破格の物件。しかし、新生活への期待に満ちた最初の夜、彼は天井に浮かぶ奇妙な「シミ」に気づいてしまう。

怪談 #ホラー#短編小説#物理的ホラー

シミ

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都心の喧騒を離れ、主人公が手に入れた破格の物件。しかし、新生活への期待に満ちた最初の夜、彼は天井に浮かぶ奇妙な「シミ」に気づいてしまう。

更新日: 6/29/2025

一、新しい部屋

都心の喧騒から逃れるように、俺はこのアパートに越してきた。少し古いが、広さの割に家賃が破格に安いのが決め手だった。契約の時、不動産屋の男が「まあ、お得ですよ。色々と」と、妙に歯切れの悪い言い方をしたのを、なぜか覚えていた。

荷解きもそこそこに、初めての夜を迎える。真新しいシーツの匂いが、新生活への期待を膨らませた。疲れ切っていた俺は、あっという間に眠りに落ちた。

二、天井の絵画

夜半、不意に目が覚めた。物音ひとつしない静寂の中、ぼんやりと天井を見上げる。

うちのアパートの天井は、ありふれた木目調の合板だ。昼間は何の感慨も抱かせない、ただの建材。しかし、常夜灯のぼぼんやりとした明かりと窓から差し込む月光に照らされたそれは、一枚の奇妙な絵画のようにも見えた。

その絵画の中央に、インクを落としたような、ぼんやりとした黒い染みがあるのを俺は見つけた。
(あれ…内見の時にあっただろうか…?)
まあいい。古い物件だ、多少のシミくらいあるだろう。俺はそう自分に言い聞かせ、寝返りを打った。

その時、ふと、鼻につく匂いを感じた。
古びた木材と、湿ったカビが混ざったような、不快な匂い。これも、このアパートの「味」というやつだろう。俺は深く考えるのをやめ、再び目を閉じた。

三、染み出す液体

異変が確信に変わったのは、それから三日後の夜だった。

天井のシミは、明らかに大きくなっていた。それだけではない。色が、ただの黒から、赤黒く、ぬらりとした光沢を帯びた色に変わっていた。

そして、匂いも。
もはやカビの匂いではなかった。鉄が錆びたような匂いと、何か…そう、肉屋の前を通り過ぎた時のような、微かに甘い血の匂いが混ざっている。

俺はベッドから飛び起きた。恐怖で心臓が激しく脈打つ。
「雨漏りか…?いや、俺の部屋は最上階だぞ…」
「湿気か?結露か?」

安いアパートだから。古いからだ。俺は必死に合理的な理由を探し、恐怖に狂いそうになる自分を無理やり押さえつけた。

その時だった。
シミの中心から、茶色がかった、粘り気のある液体が、木目に沿ってゆっくりと染み出してきた。それは、まるで樹液のように、ぷくり、と小さな雫を形作る。

そして、重力に従って、ぽつり、と。
フローリングの床に、小さな黒い点を印した。

また、ぽつり、と。
規則的に、それは滴り落ちてくる。俺は、その場に立ち尽くすことしかできなかった。

四、天井裏の住人

翌朝、俺は震える手で管理会社に電話を入れた。異臭と、天井からの液漏れ。俺の必死の説明に、担当者は「すぐに業者を向かわせます」とだけ答えた。

昼過ぎ、作業着姿の男が二人やってきた。彼らは慣れた様子で天井の一部を外し、一人が脚立を登って、その闇の中へと頭を入れる。

「うわっ…なんだこの匂い…」
脚立の下で待機していたもう一人が、顔をしかめる。天井裏の男は、しばらく何かを探っていたが、やがて、血の気の引いた顔でゆっくりと降りてきた。

彼は何も言わず、ただ、相方と管理会社に電話をかけ、小声で何かを伝えると、すぐさま警察を呼ぶように言った。

やがてやって来た刑事は、俺を事務的な口調で部屋の外へと出した。長い時間が過ぎ、再び部屋に呼ばれた時、彼は一枚のビニールシートで覆われた「何か」が運び出されるのを横目で見ながら、静かにこう言った。

「天井裏から、遺体が見つかりました。死後、かなり時間が経過しているようです」
「……え?」
「おそらく、あなたの前にこの部屋に住んでいた方でしょう。我々も行方を捜していたんですが…まさか、こんなところに」

刑事は、ちらりと天井を見上げた。俺の視線も、つられてそこへ向かう。そこには、業者が開けた、ぽっかりとした闇の穴が空いていた。

「あの天井のシミと、そこから漏れていた液体は、まあ…」

刑事は言葉を濁した。だが、俺にはその先が痛いほど分かってしまった。

「そういうことです」

五、消えないシミ

事件の後、部屋は特殊清掃が入り、天井板はすべて新しいものに張り替えられた。あの忌まわしいシミも、匂いも、物理的には完全に消え去った。

俺は、結局この部屋から引っ越すことができなかった。

今の天井は、真っ白で、清潔で、何の変哲もない、ただの天井だ。
しかし、俺はもう、この天井をまともに見ることができない。

眠りにつくたびに思い出すのだ。
自分が越してきてから毎晩吸い込んでいた、あの空気。
床に滴り落ちていた、あの雫。
そして、あのシミの真下で、俺が無防備に眠っていたという事実を。

物理的なシミは消えた。
だが、俺の記憶には、あの赤黒いシミが、一生消えることなく、こびりついている。

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